昭和52年03月02日 朝の御理解
御理解 第24節
「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
教祖様の御教えには、非常にこの矛盾を感ずる御教えがいくらもあります。この御教えなんかもやっぱそうですね。「人に誘われてのしょうことなしの信心はつけやきばじゃ」と仰りながら、「最後には勢をそろえた信心をせよ」と(笑い)ね、例えば一家中なら一家中で勢をそろえるためには、やはりその中心になる人がね、お前も信心をしてくれ、お前も参ってくれとね。
やはり誘わなければ出来ません、阿倍野のまあご信心というですかね大阪の。まあ御本部参拝をなさる教会では、まあ一番のまあ日本一と言われておる。とにかく貸切の汽車が3本出るんだそうですから、700人乗っても2100名ですからね、それを毎月にお参りがあっている(笑い)というから大したことですよ。ところがあちらは、もう御本部参拝が皆一家を挙げて、会社をあげてお参りなさるんですね。
先日先生のお話しなった御本を読ませて頂きましたら、もう随分前の話でしょうけれども、大変難儀で困って初めて、阿倍野の教会にお引き寄せを頂かれた時に、ちょうど月参りが御本部で月参りがあるから、あんたんところでもちょっと一家中でお参りなさいと薦められて、もうとにかく後にも先にも、まあ初めてお参りで、もうこれぎりだろう、とても今の状態で御本部参拝がそんなに、出来る筈がないというほどしの状態の中に、親子4人でお参りをされた。
以来もう10何年、毎月家族中でご参拝ができております。しかも段々それが楽に有り難く、一家をあげてお参りが出来る様になりました、という体験発表が出ておりました。会社でもそうです、まあ今のように布教時代。手形が落ちない、そらいろんな問題がありますよね。いろんな霊験が起こったりいたしますよ。そうすっと社長がね、社員の小使いさん達にいたるまで頼まれるそうです。これはまあ阿倍野の御流儀だと、まあ言われておるんですね。
今会社がこういう状態なんだと、それでちょっとあんた達も手伝うてくれ、加勢してくれと。まあ一つの荷物でも、あの車をひっぱってくる後押しがあったり、前を引いたりしてもらうとそれだけ楽になるように、もうそれこそ女中さんから、小僧さんに至るまで、会社で言うなら、上役から下役の人達まで、あの社長がたとむ。亭主が頼むもんですから、始めの間はお義理で参っておるのだけれども。
この参っておるその人達がおかげを受けるもんですからね、いわゆる会社中でお参りすることになり、店中をあげてのお参りと言う事になろう。だから勢をそろえた信心が出来られる訳ですね。例えてなら初めのところは人に誘われての信心だ、初めは誘われてですけれども、ただお参りしようかと、いいや私はやめようかと。そんなら私もやめようかと言う様な事ではいけんのだと言う事じゃないでしょうかね。お参りしましょうかと、いいや私はもうご無礼しようと、そんなら私もご無礼しようと。
そういう信心ではならんというね。やはりその身から打ち込んだ、どうぞっというね、言うなら神様の方が手を下げんばかりに、つかんばかりに、どうぞその身から打ち込んだ信心をしてくれと。そこで今日はそういう、言うならばこう矛盾を感じるのですけれども、段々ご理解を頂いとりますと、それが矛盾ではなくなると、それがまた本当だと言う事が段々分かってくるわけです。
その身から打ち込んだ信心とはどう言う事だろうかと、まあ一生懸命にお参りをする。ね、やっぱそれも打ち込まなければ出来る事ではありませんけれども、金光様のご信心はどこまでも、その身からどこへ打ち込むかと言うと、教えを受けると言う事、教えを頂き守ることに打ち込まなければいけない。これを私は昨日から、そのことに気づかせて頂いて、で結局煎じ詰めるとお道の信心は どう言う事かというと、三代金光様にある方がどういう信心をさせて頂いたらおかげが頂けましょうかと言うて、お伺いをされた時に教祖様の御教えを守る以外にありませんと仰ったそうですね。
いろんなことに打ち込む前に、まず教祖様の御教えを頂いて、その御教えに本気で打ち込むことなんですね、なかなか。私は昨日「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ」と言う様な御理解でしたが、梅の花は長う苦労しとるから、言わば長う散らんと。もう梅の花の信心は長う苦労しておるからと言う事なんです。言うならば「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ」と。ただ参ったり拝んだりと言った様な信心からね、言うならば教えを頂く、教えを守るという信心にを梅の花の信心というならばね。
その桜の花の信心は、もう一遍捨てなければいけない。「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ」とね。例えて分かりやすく言うと、仏教より金光教をせよと、例えば仰ったとするならね、まずその仏教そのものをやめなければいけないでしょう。仏教よりなら仏教もよか、金光様もよかね、というのじゃないです。仏教より例えばですよ、金光教をせよと言われたら、仏教をやめて金光教一本にならなければいけないように、桜の花の信心より、梅の花の信心をせよと。
いうなら桜の花の信心をやめて、梅の花の信心にならなければいけないでしょう。それでなら昨日はこの梅の花とか桜の花とかと言う様な事を、まあいろいろにそれこそあらゆる角度から合楽で説かれとりますけれども、昨日のところではどう言う事かと言うとね、長う苦労しておるところの梅の花の信心とはどういう信心かと。いろんな苦しいことがあってもじっと辛抱する。して耐えておくそれもやはり苦労ですけれども、それはどこまでも苦労ですね。病気をするお腹が痛い、じっと耐えておる。
やはりそれも金光様、金光様と唱えながら、唱えておってもです、それはやはり苦労ですね。信心の苦労というのはね、教えを行ずると言う事なんです。教えを行ずると言う事はね、その気になれば、いっちょん難しいことはない。教祖様はもう人間ができないような修行は一つも言っていない。もう本当に人間がする信心だと。生身の人間がさして頂く信心だと思わにゃおられないほどしに、やろうと思えば誰でもできれる。
例えば御神誡なら、御神誡の12か条にね、読んでみましてもどの一言だってそりゃ難しか、とてもそんなことは人間ではできんと言った様な御教えは一つもないね。こう言う事は一生してはならないだとかね、あれを食べてはならん、これは飲んじゃならん。とまぁいかめしい戒律を持った宗教が沢山ありますよ。見ただけでもとても、私共人間じゃできそうにもない様な事ですね、お酒を飲んではならないとか、女は寄せ付けてはならないとか、出来るこっちゃないでしょうね。
お酒も頂いてよしね、言うならばただ我情我欲とね、我欲がいけないと仰るだけでね、大酒大食をいけないというのであってね、適当に頂くお酒であるならば、ならお酒をでも頂くいや頂くと言う事がおかげであると。問題は神様が作って下さってあるのだから、有り難く受けると言う事がおかげであるというのが、教組の御教えですからね。だから本気で私共が教組の御教えに取り組み方が足らなかったとね、いや迂闊にしておったと、昨日の御理解を頂いて、しみじみそれを思うですね。
梅の花のいうなら信心。なら長う苦労しておるからという信心。もう長う苦労しておると言う事は、長う例えば「おかげは和賀心にあり」と仰せられるから、その本気で和賀心にならせて頂くと言う事を10年でも20年でも、いや30年でも続ければ続けれるほど、この和賀心というものにはきりがないのですね。信心はもう結局有り難くなる稽古だと、もう私は有り難くなったというて、いうわけにはいけんの、もう有り難いというものにはきりがないのだからね。
一尺の有りがたさもありゃ、ね、一丈の有りがたさもあるのだと、ですから、その有りがたさを追求していくために教祖の御教えを本気で家業の行に現していかなければ、いけないというわけです。なかなか、見やすいようで、なかなかそれを、皆が行じていないところを見るとです、やはり難しい。けれども、お道でいう信心の修行とか苦労とか、苦労というならば、修行というならば、ね、教えを行ずる以外にはないと。なるほど、三代金光様が、ね、どういう信心をさせて頂いたら、おかげになりましょうかという対する答えに、もう教祖様の御教えを守る以外はありませんと。
そうですね一生懸命、参っておいでなさいますね。一生懸命御用をしなさい。おかげを頂きたいならばね、一生懸命お供えをなさい。と言う風には仰っていないです。教祖様の御教えを守る以外にはないと、もう是に尽きると仰っておられるね、なら教祖様の御教えを言わば尽きる事のない程しに、私共が研修していって参ります。いや身に付けていってまいりますと、お参りもしなければおられなくなってくるのであり、御用もしなければおられなくなって来るのでありますね。もう御教えを行ずる以外にない。
昨夜も月次祭に福岡で参って来る、ある教会で熱心に信心をしておられたところが、いよいよ店が倒産。まぁまあいろんな問題があって、ここへ参って見えておられます。昨日も夕べ月次祭に参って見えて、今月はどういう生き方どういう信心をさせて頂いて、商売に取り組ませて頂いて、商売に取り組ませて頂いたらよかろうかというお届けがございました。そして今月はどの地方に主に、言うならば商売に出歩いたらよいでしょうかと、神様から。四方八方と頂いた(笑い)。
もう答が答にならんのだけれども、素晴らしいですね。四方八方です。もうどこででも、おかげが頂けますよと言う事なんです。必ず今月は東の方へ行きなさい。今月は西の方へ行きなさいと言う事ではないのですね。そして私それに付け加えて申しました。例えばね、億のお金がつく財産があると致しましょうか。神様がその億の金がいると仰るから、なら、その億のお金をお供えすることはなかなか難しいです。けれどもあなたの財布の中には千円しか入っていない。2千円しか入っていない。
もうこれだけで、全財産だという時にですね、お供えしようと思うたら2千円なら、楽に出来るでしょうがと。全財産を打ち売ってお供えすることが出来るでしょうとね。例えば商売をするならば、売場買場と言うてね、まず仕入れのところを大事にせよ、又は売り場の方を大事にせよとこう仰る。人が10銭かけるもんならが8銭かけよと、目先は2銭損のようでもね、数が売れるからそれの方が得だという御教えがありましょう。なかなか出来んですよ。
私も商売して参りましたけれども、10銭の物は11銭で売ることの方がおかげのように私は思うとった。本当に昔ですよ。うん。人が5円で売るなら5円50銭に売らにゃできなかった。それがおかげであり、それが商売上手だと思うておった。まあそう言う所もないじゃないですけれども、私は北京時代に酒屋でございますから、当時お神酒一本が5円でした。もう十何件というあのう日本から内地から、大きな酒屋が行っては奈良のあたりのの酒屋が行ってます。
それが全部5円でした。それは私の方のは5円50銭にしてました。そしたら不思議に5円50銭の方が売れるんですからね。そらおかげを頂いた。そげんとをおかげを頂いたとこう思うておった。人間ちゃあ不思議なもんですよ。高かか方が良かごとある気がするわけですね。もうそこをついたわけですね。そして余分に儲かった分だけは、お供えすりゃあ神様が喜んで下さるようには思うておった。それが御用ができるかのように自分でも思うておった。
今から考えてみると、わきの下から汗が出るような商売を、言わばしてきておりますね。けれどもね、昨日私御取次ぎさして頂いたように、もうぎりぎりの資本でぎりぎりの商売をしておる人ならばですね。例えば今月はどうでもね、今まで100円で売りよった物は90円で売りなさい。そして本気でね、売り場買い場を大事にしなさい。もう外に仕様がない。そうする他に仕方がないという時ですから出来るんです。
そしてならそれを教祖様の御教えを守る事になると、はあ成程それがいかに素晴らしい事になるか分かるのですね。よく話し例えば自分の最後に二千円、もう千円しかない、2千円かないね。私共はいつも財布がいつも空でしたね。お供えをしてお供えをしてお供えをし抜きました。出来た訳ですもう最後には何から何もう入ってない時には、切手が入っとる事があったりね、電車の切符入ったりしとると、それがお供えでしたね。
そして初めて分からして頂いたことは、氏子の真心から、するお供えならば庭のチリまでも神が受けると仰る事実をね、体験の世で頂いてきた。なるほど100円の物を110円で売ることがおかげのように思うておったものがです、100円の物を90円で売らせて頂いて、初めて、教祖の御教えが、なるほど嘘を仰っていないんだなという事実をつきとめ、事実を受けること、体験することが出来る様にです。
ですから今度は、ならだんだん商売があるようになっても、私の方のお商売の、言うならば方針というものはもう薄利多売主義と言う事が、看板だけではない。本当に薄利多売主義ができるから、いよいよもって繁盛になっていくはずですね。それがやっぱあの小さい時、小資本の時金がない時ね。例えばその全財産をお供えする。いかにも聞こえがいいですけれども、実際は千円であり二千円であるね。
と言う事がです、それが1万円になりね、何百万円になり、もう本当に神様の御用とあるならば、いつ何時でも全財産に、言うならのしをかけておくことすらも、出来る様な心の状態が開けてくるのである。これは教えを守るというところからそういう体験が生まれてくるのであるね。その一言だけではありません。その教えを守ると言う事に命を懸ける。それが信心の苦労であり、言うならば梅の花の信心であり、梅の花の信心は苦労しておるから長う散らんというのですからね、花も咲く。
言うならば鶯も来て止まるね。実もつきましょう、梅干にもなりましょう、言うならばその信心1本で、お徳が受けられるというところに出ることが出来るんです。私はここにね、今日はその身から打ち込んでの信心をせよと。だからその身から打ち込むと言う事は、ならどこに打ち込むか、お参りに打ち込むか、御用に打ち込むかね、それもやはり言わば送り合わせを頂きます。けれども本当のおかげね。
昨日そのことをおかげと言う事を金光教ではね、例えば2、3日前も神戸のある方が息子さんの高校入試のお願いに来てあった、わざわざ神戸から参って来ておった。ところが、不合格であった。そしたら手紙が来て、それこそ手厚いお礼の手紙が来ておったね。言うならば入学ができなかったと言う事に対するお礼の、行き届いた手紙であった。お礼参拝がしたいのだけれども、風邪をひいてお参りができないからね、来月は早々にお礼参拝をさして頂きたいと。
これがね例えば出来ました、おかげでと言うならばそのお礼も分かるし、又はお礼参拝も分かるのだけれども、お願いしておったことが、反対になっておっても、やはりお礼に参って来ると言う所に、お道の信心があるのです。いわゆる落ちました、落第しましたけれどもね、おかげと頂くと言う事が金光教のおかげですと。いわゆるおかげ観ですね。金光教のおかげは一切をおかげとして頂く、それがおかげ。昨日そのところを、例えばご利益と言う事をお繰り合わせというふうに聞いて頂きました。
ならんところがなる。出来ない事が出来るというおかげを、お繰り合わせを頂くという。その信心でいうところの、お繰り合わせとそのおかげが、相まっていくところの、信心になることのために、一切のことをおかげと分からせて頂くほどしの信心とは、どういう信心かと言うと、その身から打ち込んで、教えに取り組む事だと言う事なんですね。そこで教祖の御教えは、例え一編読んだのは、今日の御理解もね、人に誘われてしょうことなしの信心ではいけないと仰るかと思うと、最後にはね。
御教えには勢をそろえて信心をせよとこう仰っておられます。矛盾ですけれども、段々お話を頂いておくうちに、矛盾ではないことが段々分かってくるんです。ですからもう本当に頂けば、頂くほどその深さ広さには、もう只々驚くばかりですけれども、例えばなら、おかげの泉でもそうです。教祖の御教えを元にして、いよいよ深くいよいよ広く、解き明かしていく、あるのがおかげの泉ですね、だからおかげの泉で皆んながおかげを受けるのですね。浅い頂き方では浅い、やはりおかげです。
深く頂くから深く、小さい頂き方ではおかげも小さい。大きな頂き方をするから、大きなおかげを受けられるのですから、教祖の御教えをいよいよ行事ていくうちに、教えがまた教えを教えて下さる。合楽の場合は全くそのとおりです。私が教えに取り組む。そして、取り組んでみると分からないところが出来る。分かった時にはもうすでに、今までとは違った深さ広さを感じる御教えになっておる。またそれを行ずるから、いよいよおかげは大きく広くなって行くと言う事になるのじゃないでしょうか。
私の場合これは期せずして私も分からんなりにね、金光様のご信心の、いうなら肝心のところであるところの和賀心とか、天地日月の心になること肝要と仰せられるところの、そこに私が分からんなりに取り組んだと言う事が今日の合楽があるのですね。そりゃ様々に打ち込んできた。お参りにもそれこそ、まあ人がした修行というなら、水もかぶってみた、断食もしてみた。それこそいよいよ水の行、あらゆる修行もさせて頂いたけれども、本当なおかげじゃならなかった。
うんそこでなら、もう他に修行のしようがない。そこで私に起きてくる、あの問題が、例えばそれが苦い物であろうが臭い事であろうが、もうそれを受けますという修行に、本気でそのことにならせて頂いた。それが後々で考えさせてもらうと、成り行きを尊び、大切にしてきたことであり、神様の御働きそのままを大事にしてきたと言う事になり、それを教祖のお言葉を借りると、天地日月の心になることに、只々打ち込んできたと言う事になるのですから、おかげ頂くはずです(笑い)ね。
だから言いよれることは、教祖様の御教えを頂くと言う事に、その身から一つ打ち込んでの信心にならせて頂く。それがお道の信心でいう修行であり、苦労というならば、それが苦労なのだと。それも本気になればなれるんだと。それが自分が今いよいよ難儀を感じておる時ほど、それに打ち込む事が出来るんだとね。回っても回っても、例えば売れないね。もういよいよ売れないから、もう安く売っても高く売っても、どうせ売れんなら、一つ神様が言うて下さるようにね。
もうそれこそ安う売らせて頂こうと、腹も決めやすい。そこでんなら10銭の物を8銭で売らせて頂いたら、数がよけ売れてきた。教祖の神様は嘘を仰ってはいなかった。あの店はなかなか、薄利多売主義だと言うて、信用がだんだんついてきたね。中途半端ん時はなかなか出来んけれども、そういうぎりぎりの時にはできるもんですね。もうとにかく全部お供えしてしもうた所で、二千円じゃないか千円じゃないかと。出来るでしょうがね。それこそ私の全財産にのしをつけて、神様にお供えをする事が出来る。
その自分の全財産にのしをつけると言う事がです、一切が神様の御物であるとわかった境地と同じことになるのですね、一切が神様。だからんならここの財産が億万の財産があってもです、いつもこれにのしをかけておれれるわけです。私の物ではない。一切が神様の御物だという頂き方。神様がいると仰ればいつでものしをつけて、奉られるだけの心が言わばね、財布の中にそれこそもう切手だけしかない。昔は証紙というのがありましたよね、呉服やら買うと証紙を張る。
もう証紙だけしかない。それでも全財産使う。それをお供えしたそのあかつきにおかげを受けておる体験を積んできておるとする。ね。そこから新たな信心が生まれてくる。今日はいかにもこの、24節が矛盾に満ちた教えのようにあります(笑い)。初めと最後のところを読むと。けれども真中のところにどうぞその身からの打ち込んでの信心と言う事になってくる時、その身から打ち込んでくるとです、そうしなければおられないと言う事になってくる。ね。
その身から打ち込んだら、社長が社員に頭を下げるのは、言わば嫌なんだけれど、これはどうでも、社員に頭を下げてでも、どうぞお前もいっちょう参って来てくれと言う事になるね。そうすと義理にでもお参りをすることになるね。そすと義理にでも参ったその人がです、今度はおかげを受けることになる。と言う様に十重二十重に信心の世界が広がって行く事になるのです。それがその身から打ち込んでおる時でなからなければ出来る事じゃないのです。
今日はそのその身から打ち込んでという、んならどこに打ち込むかと。まあ昨日に引き続いて、教えに取り組む。教えに打ち込む以外にはない。教えに打ち込んだら、朝参りもせずにはおられなくなってくる。目もぱちっと覚めて来る様になるね。宮崎さんの妹さんが久留米に嫁に行っておられます。毎日、日参をされます。昨日もお届けされるのに、本気でもう朝参りばしよう。兄さん達夫婦がああやって一生懸命、おかげを頂いて、それこそ見事なおかげを頂いていきよる。
ほんに家もどうでん信心せにゃというので、お参りを始められたところが、もう時間にはぴちっと目覚ましのおかげを頂いてと。その身から打ち込んでの時には神様が起こして下さるです。その身から打ち込まんから、とうとう今日も目が覚めんじゃったと言う事になるのですね。その身から打ち込んでの信心を今日は聞いて頂いた。しかも打ち込むならどこに打ち込むかと言う事を聞いて頂きましたね。